2019.3.9(土)発菩提心のすすめ 鈴木伸幸師
3月9日は「発菩提心のすすめ」をテーマに、鈴木伸幸師(真言宗寺院副住職)にお話をいただきました。 この日は7世紀のインドで活躍した仏僧、シャーンティデーヴァ(寂天)の著した『学処集成』についてのお話でした。以下は当日の音声データを元にまとめたご法話の要点です。
シャーンティデーヴァの著作は『入菩薩行論』が有名です。内容は、悟りを求める者がどのように心を起こしていくかが詩の形で書かれているもので、宗教的情熱に満ちています。インド・チベットの仏教の伝統では、大乗の発心次第を説く論書として非常に重視されました。
これに対して『学処集成』(シクシャー・サムッチャヤ)の方は、多数(130種ほど)の経典を引用しつつ教えを説くものです。この書にしか残っていないサンスクリットの経文もあり、とても貴重な文献です。しかしあまり取り上げられることがなく、研究者も少ないのが現状です。
私は、現在オランダのライデン大学と日本の往復をしながら『学処集成』の研究をしています。そして研究しているうちに、何が書かれているのか、だんだんとわかってきました。
『入菩薩行論』も『学処集成』もテーマは同じです。「悟りを求めるために起こす心」つまり発菩提心について説かれています。
シャーンティデーヴァの著作において菩提心は二つに大別できます。「願菩提心」と「行菩提心」です。前者は「悟りを願う心」、後者は「悟りに向かい進んでいく心」でどちらも重要ですが、特に行菩提心の実践に重きを置いて膨大な量の経典を引用しつつ説いているのが『学処集成』の全体像です。
行菩提心の実践に入るために、まず「サンヴァラ」(「律義 りつぎ」を意味とするサンスクリット語)の受戒が説かれています。仏教での「律義」とは日本語で知られている、生真面目さを表わす「律儀な人」といった意味とは異なります。初期仏教では、元々煩悩をシャットアウトする覆い物のような意味で使用されていましたが、時代と共に考え方が変わっていきます。しかし「サンヴァラ」についてはっきりした定義はなく、戒や律がしっかりした定義をもっているのに比べて「これがサンヴァラだ」というものがないのです。そこで研究者によっても定義はバラバラになります。『学処集成』においてサンヴァラは行菩提心の発心に関係する概念で、私は「やる気スィッチ」とでも呼ぶのが相応しいように思っています。大乗では「上求菩提・下化衆生」が重要な理念ですが、このためにやる気を起こさせる儀礼がサンヴァラの受戒であるといえます。
さて、サンヴァラの受戒の方法は二通りです。「自誓受戒」と、師より授かる「従他受法」です。この場合、師は1名でよいことになっています。これはどこかで聞いたことがあるとお思いになるでしょうが、アサンガ(無著)が4世紀ころに『瑜伽師地論』に示した菩薩戒の授戒とほぼ同じやり方です。しかしアサンガの説明よりも簡潔に書かれています。
そして『学処集成』では「自らの能力に合わせて、釣り合う教えを実践しなさい」と説いています。しかし経典は膨大な量がありますから、自分に合ったものを探すのは難しいのです。そこでシャーンティデーヴァは「七つの要所」を説いています。
その七つとは①身体②所有物③善性④守護⑤浄化⑥増大⑦布施です。
どういうことかと言いますと、⑦の布施を前提として(自らの)①身体②所有物③善性。この3つを④守護し、⑤浄化し、⑥増大させなさい。そして⑦布施をしなさい、とします。守って浄めて増やしてから布施をしなさいということになります。なお「身体の布施」は、日本人にはピンと来ないと思います。これについては『学処集成』のサンスクリットとチベット語訳では眼や骨、肉などを切り取って与えようとするグロテスクな表現を伴って書き表されますが、漢訳では省かれています。ここにはインドと東アジア文化圏の宗教的な感性の違いが現れていると考えられるでしょう。
『学処集成』の結論は、このような「布施の功徳」を説くことに尽きるもので、そのことは第1章「布施波羅蜜章」の最後に「布施は菩薩にとっての菩提である」と示される通りです。これについて、私は「はからいがない」ことが大事だと考えています。困った人にさっと手を差し伸べることは、実は困難なことです。何故ならば私たちは生まれつき「私が私が」という我執を持ち、根本的な無知の中にあるからです。しかし修行を通してある境地に至れば無駄なはからいがなくなり、手を差し伸べることが自然になる。結果は「自利利他円満」となります。このようにして衆生救済に励みながらブッダの境地を目指すのが『学処集成』に説かれる菩薩道です。
文責:加藤悦子
鈴木伸幸(すずきしんこう)師プロフィール
高野山真言宗寺院 副住職
東洋大学大学院博士後期課程に在籍。
第6回仏教伝道協会日本人留学生としてオランダ・ライデン大学で学ぶ。
2016年10月に中村元東洋思想文化賞「優秀賞」受賞。