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2023-04-13

亀山隆彦先生 過去の講演記録抜粋(本講座の内容と関連があります)

この記録は2019年4月 亀山隆彦先生の講座「真言密教VS天台密教」記録より抜粋したものです。本講座では、ここにあるお話の内容をより詳しくお聞きすることになります。


日本密教における即身成仏

皆さんは、即身成仏という言葉を聞いたことがありますか?「身」は身体のことです。「即」はそのままというこです。身そのままに悟りを開く、というのは密教、特に日本密教の非常に大切なキーワードです。大乗仏教では、とにかく人々を救けなければダメで、自分の悟りの前に膨大な時間をかけて他者を救けたあとに悟りを開く。だから即身成仏というのは本来、大乗仏教の教えに違反するという考えもできます。しかし即身成仏は日本密教のひとつの大きなキーワードである。これをめぐる、真言と天台の交遊のお話を致します。

原始仏教は、釈尊がゴータマ・シッダールタの身として生まれ、現世で悟りを開いて、涅槃に入り、終わりという感じですが、速やかという意味で即身成仏です。しかし後に『ジャータカ』(前生譚)という釈尊の前世物語が出てきます。己の身を焼いて聖者に食べさせるという兎の話が有名ですね。「ブッダはものすごく長い間の生まれ変わりを経て、ゴータマ・シッダールタとして生まれ、悟りを開いた」という話になっていきます。元々、仏教はこの身、このままで智慧を得ると教えだったのが、いつの間にか「長大な時間をかけて悟りを得る」という話に変わっていくんです。大乗仏教ではそれが顕著に表れます。大乗では修行者は菩薩、ボーディサットバが智慧を求めるモチベーションをもつのと同時に、他者を救ける慈悲の心が強調されます。究極的には、大乗仏教の成仏は「この世界にいるあらゆる存在を救け尽くした後に自分も悟りを開く」ということになり、それが理想の姿でありゴールです。それが「長時成仏」で、即身成仏とは矛盾するわけです。

密教以外でも即身成仏を主張したグループがあり、わかりやすいのは禅の「頓悟」(とんご)です。禅僧とインドの大乗仏教の僧侶とが論争をした記録があります。チベットでの「サムェーの宗論」と呼ばれるものですが、結局インド側が勝っています。密教の場合は、懸隔(けんかく)をどう乗り越えるかという時に、儀礼が出て来たり、シンボル…マニアックな言い方をすると「象徴操作」と言うのですが、実際に衆生を救けるのではなくて、それを象徴する印を結ぶ。象徴コントロールすることで実際の行為に代価していくというような発想になるのですが。とはいえ、密教の即身成仏にも批判がありました。

日本では、平安時代のはじめに、法相宗の徳一というお坊さんが『真言宗未決文』という名の、空海に宛てた手紙を書きました。そこで徳一は、空海に「あなたの言う即身成仏には二つの大きな誤りがある」と指摘します。「一つは行が欠けている。修行が不完全ではないか。もう一つは、あなたの言う即身成仏とは衆生を置き去りにする、慈悲を欠いた行いではないか」と批判を出します。これはサムェーの宗論とも繋がっているものです。それまでの伝統的な大乗仏教の成仏観から見て、邪教のように扱われ、即身成仏は誤った解釈ではないか、なぜならば慈悲がないではないか、と言うわけです。それを受けて、空海は即身成仏の思想をさらに展開させて行くわけです。末木先生は「空海はこうした批判を媒介にしながら独自の即身成仏を打ち立てて行く」と言うのですが、その時にキーワードになるのが以下の3つです。

「六大」「四曼」「三密」

空海以前の即身成仏は端的に言うと「今この身のままに速やかにブッダになる」という
時間的な早さだけが主張されているのですが、空海はそこにもうひとつの意味をプラスするんです。「今この身が、実はそのままブッダである」というように。それは時間的な早さに対する空間的な連続です。その空間的な連続は、言うならば「今、僕たちは気づかないだけで、今僕の身体がブッダそのもので、ブッダが我々そのものである」という思想です。言葉だけで聞くと「何のことだ?」となってしまいますが、それを直観的に表現したものが「曼荼羅」です。曼荼羅の中に描かれる、放射状に広がっていくブッダたちの図こそ、ブッダが我々であり我々がブッダだという連続の教えのシンボルです。それまでは「速やかにブッダになるか、ならないか」という議論だけだったのが空海は「我々の身体がブッダである」というように、議論の方向を変えていく。その時に、六大・四曼・三密の3つのキーワードが重要になります。

まず「六大」。地・水・火・風・空・識という6つのエレメントです。空海はその意味を読み替えて、この6つのエレメントは我々を形成するものであると同時に、これ自体がブッダの身体そのものである、シンボルそのものである。というように読み替えていきます。たとえば、お墓にある五輪塔がまさに六大であり、大日如来のシンボルです。下から地・水・火・風・空。そして裏に識を表現します。パーツ一つでもそれぞれに六大を表わすとされ、この六大で我々も出来ている。大日如来もこれで表現されるということで繋がっている。存在の根底からブッダと連続している。それを言葉だけで表現しても伝わらない。直観的に理解させるのが曼荼羅だということですね。その曼荼羅に4種あり、それが「四曼」です。大曼荼羅、法曼荼羅、三昧耶曼荼羅、羯磨曼荼羅とありますが細かい説明は省きます。曼荼羅にブッダと我々の連続が表現され尽くしている。最終的に体得するにはどうしたらよいか?という時に、いよいよ修行が出てくるんですね。それがいわゆる「三密」の修行です。手に印を結び、口にマントラを唱え、心にブッダをイメージする。本質・表現・はたらきという3つの方向から「我々がブッダそのものである、だからこそ我々は速やかにブッダになることができる」と主張する。そしてそれを表現する言葉としてyoga(瑜伽)を用います。瑜伽は元々、ヨーガという言葉の音写で、「相応」「渉入」というように訳します。この「相応」「渉入」が即身成仏の大事なキーワードであると同時に、空海の独創性としてこの2つを華厳経に出て来る「インダラ網」と関連させています。

もう一度、空海の説いた即身成仏の内容についてまとめますと、空海は、自身の密教の素晴らしさを打ち立てる一つのキーワードとして即身成仏を主張する。しかし即身成仏は思想史的に批判されてきた概念でもある。それを乗り越えるために空海がどうしたかというと、色々な密教の概念を新しく作り出したり、曼荼羅のイメージを利用しながら「この身がすでにブッダとして生きている」という思想を生み出していく。
それを天台宗がどう受け取っていったか?ということが今日の結論です。結論から言えば、空海のこの即身成仏の教えは、そのまま天台密教に入っていきます。さらにそこに、天台密教のエッセンスが加わっていきます。

天台密教が主張した即身成仏

おそらく、空海に影響されてだと思いますが、最澄も、天台宗の素晴らしさとして即身成仏を言っています。「時間的に早く成仏する、この身のままに成仏する」という側面を強調し「天台の教えにはそういう力がある」と言います。それは当然、前述の徳一に批判をされるわけです。しかし最澄は、その時に空海のような「この身がそのままブッダであるが、凡夫は気づいていない」という説は出していません。

天台にとって即身成仏は大きな問題がありました。実は天台では空海の説く即身成仏は不可能なのです。天台の場合は成仏するまでに色々なランクを立てます。「五十二位」という、52ステップの菩薩の修行の段階、そして智顗が提唱した「六即」という悟りへの6ステップも重ねています。そしてこのランクをめぐる議論を経て、天台では「最高位の妙覚の位に至れば成仏が果たされるが、それまでの段階で、行者は必ず現在肉身を捨てる」という説にいたります。つまり人間の身体のままでは成仏はできないというのが中国天台の原則で、必ず身体を捨てる(死ぬ)プロセスが要るんです。この身がブッダであるという意味での即身成仏は不可能ということです。人間の身体を一度捨てて、法身を得ないと妙覚にはたどり着けないという考えです。ではどのようにして真言密教の即身成仏と折り合わせるか。これが日本天台の大きな課題になっていきます。 (文責:仏教サロン京都 加藤悦子)

…この続きのお話を、本講座「平安期密教思想の展開:安然の真如論から覚鑁の身体論へ」にてぜひお聞きください。

ご受講はメールで受け付けいたします。締め切りは講演の前日、4月26日(木)の20時までとさせていただきます。メールに「亀山隆彦講演 受講希望」とタイトルをつけて、1)お名前 2)来場希望かオンラインか 3)学生の方はそう書いてください。2300円→2000円になります。ただし申し込み受付以降、学生証以外で証明するものの写真が必要になります。 5)携帯のお電話番号 6)連絡先メールアドレス をご記入し、メール送信してください。折り返し、仏教サロン京都よりお振込み・会場等のご案内を送ります。開講直前にお申し込みの方は、後払いで結構です。

受付メールアドレス tennyodo※ac.auone-net.jp(仏教サロン京都)※を@に変えてください。

問い合わせ先:080-5641-1076 加藤(毎日21時まで)

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タグ: 亀山隆彦円仁即身成仏天台密教安然密教日本密教真言密教空海覚鑁

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