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2019-06-21

金菱哲宏師 特別講話全記録「瞑想における三昧について」

心の働きは、単なる想念(イメージ)で無色透明であるが、それを煩悩が色付けしている。想念が起きる働きと、煩悩が色付けを行う働きの2つは、同時に起こっている。

心の働きは映像のようなもので、誰かがそれを見ていることになる。誰がそれを見ているのか?「心が心の働きを見ている」と前回にお話をさせていただいた。その作用の後ろに「自らの本性」(=見るもの=プルシャ)があるとヨーガでは考える。ただし、仏教ではこのようには考えない(無我)。

心は心の働きを見ることはできるが、自らの本性を認識することはできない。なぜなら心は、常に心の働きや煩悩を見ている、あるいはそれに囚われているから、自らの本性を認識できなくなっているのである。この状態を「無明」と言うが、サンスクリットでは<アヴィドヤー(avidyā)>である。<a->は否定辞であり、<vidyā>は「正しい知識」である。正しい知識を誤らせるもの、あるいはそもそも正しい知識がないことが「無明」である。無明に基づいて心の働きや煩悩がある。世界の認識は誤認に基づくのである。

「ヨーガとは心の働きの止滅」であると『ヨーガ・スートラ』の1-2には書いてある。心の働きを止めるとどうなるか?自らの本性に安住するということになる。心が動いている間は、誤りに基づいて心を動かし、体を動かしている。心の働きを止めることで、自らの本性を立ち現れてくる。

たとえば、美しい音楽があり、それが非常に繊細で、周りの雑音を止めないと聴こえないような、そうしたものを思えばよい。静寂は聴こうとしても聴こえない。周りの音を完全に止めることで、はじめて聴こえてくるようになる。

自らの本性とは、はじめも終わりもない全きもので、完全に清浄なものとされている。なぜ、それを追い求めるのか?苦しみから抜け出すためである。苦しみを脱していかにして絶対的な幸福に到達するか。このことは、古代インドで盛んに追求されてきたテーマであった。

『ヨーガ・スートラ』は4世紀ごろに書かれたもので、前述した自らの本性について、詳しく述べられている。しかし、それ以前のウパニシャッドの時代に、インドの哲人たちはある種の答えに到達しているのである。彼らはアートマン、ブラフマンといった絶対的存在に気付いた。紀元前5世紀頃のことで、仏教の開祖ゴーダマ・ブッダも同じ時代に絶対的真理に到達した。

『ヨーガ・スートラ』では、絶対の幸福に到達する方法として、自らの本性に至ること、その手段として心の働きを止めることを提唱する。

しかし、瞑想してもすぐに心の働きが止まるわけではない。心に刻み込まれた習性によって、煩悩が止まったと思ってもまた起こってくる。無限の過去からの煩悩の種があり、種は無数に蓄積されている。それらに関する用語は以下の3つである。

1 潜在印象 サンスカーラ(saṃskāra)

『ヨーガ・スートラ』では心の働きを5つに分類している。「正知・誤謬知・構想知・睡眠・記憶の想起」であるが、このうち、「記憶の想起」の種に当たるものがサンスカーラである。しかしそれは表面的なレベルのものである。

2 習気・薫習 ヴァーサナー(vāsanā)

過去から続く煩悩の種が、潜伏状態となって埋蔵されていること。サンスカーラつまり記憶の想起が表面的なものであるのに比べて、ヴァーサナーはより深いもので、煩悩(心の働きに色付けをしている)の種のように言われる。

3 業 カルマ(karma)

行動の余力・余波。行為と結果の間には時間が介在するが、それをつなぐものが「カルマ」である。行動⇒カルマが溜まる(潜伏している)⇒結果(何かのきっかけで出るという図式になる。カルマは消費すると無くなるが、消費する時にまた溜まるので永久機関のような働きになる。亡くなる時点でゼロになれば解脱することになるが、たいていの人は残したまま死ぬので、カルマを消費することが宿題になる。ゆえに人は輪廻転生を繰り返す。

この3つが心の働きを起こさせるエネルギーを供給し続ける。これらが無限にあるのが人間である。生まれた時から備わっており、わかっていても習癖から逃れられない。それは種が自分の心に刻みつけられているからである。

あらゆるものは、それ自身の本性においては「区別」が無い。けれども、上で説明したような3つの領域での種があるゆえに、人は心の働きに支配されていて、限定してものを見てしまう。しかし、それがあるから「私」が「私」として生きられる。種があるゆえに心の働き、自己存在やものへの執着が起きる。そして獲得、消失することの喜びや失望が起きる。それは相対の世界であり、二極対立の世界である。これに対して自らの本性においては「ただある」という絶対の世界、仏教で言えば「悟り」の世界が見出せるということになる。

サンスカーラ、ヴァーサナー、カルマがあるから諸々の煩悩、執着、習性がある。そこから離れられないことを嘆いたとしても、その嘆きすら心の働きであり、煩悩である。生まれた時から刷り込まれているのであるから、嘆いても仕方がない。自分に責任があると考えない方がよい。また、生まれた後のことであっても自らの煩悩、執着、習性について、自己責任であるとは言えない。自らが自らをジャッジするという行為自体が心の働きであり、煩悩であるのだから。自己によるジャッジを繰り返すほどに、余計な3つの領域の種が増えていくのである。

ではどうするか?ヨーガによって「心の働きを止めましょう」ということになる。さきほど『ヨーガ・スートラ』の1-2には「ヨーガとは心の働きの止滅である」と書いてあることを話した。止滅の原語は<ニローダ>であるが、これは<ニ>(下に)という意味の前置詞と<ルドゥ>(抑える)という意味の動詞との複合語である。訳語としては「止」はそれで間違ってはいないだろう。ただし「滅」に関しては、「あるものを完全に無くす」とまで言い切れるかどうかはわからない。「止」のあり方については、たとえるなら絶対0度の領域まで止めるということである。

さて、この「止まっている状態」が、今回の主題の「三昧」ということになる。原語は<サマーディ(samādhi)>である。分解するとまとまりを表わす接頭辞の<sam->と、方向性を表わす<ā->、それに「置く」という意味の動詞からの派生名詞である<dhi>の組み合わせからなるが、いわば「対象に意識を置いて、対象と一体化する」ことが「サマーディ」ということになる。「三昧」はその音写であり発音は「さんまい」が正しい。

日本では「○○ざんまい」のように濁音で発音される。この○○ざんまいという言い方は、三昧という語の使い方としては、的を射ている。何か物事にふける集中している状態を指している。

ヨーガには8つの段階がある。最後の3段階は「瞑想に取り組む」⇒「心が鎮まる(静慮)」⇒三昧の順で、最終段階がこの「三昧」になる。そして三昧とは「対象だけが立ち起り、自らが空化して対象と一体になる、対象だけになる」といった状態である。

三昧には以下のような段階がある。

1 音声(名称)と対象が混ざりあっている。「私」が消えて○○だけが現われる、それになっている状態。しかし名称は残る。○○の名前と○○そのものと、○○を捉えている自己意識が混じっている状態である。

2 音声(名称)と対象の混ざりが無くなる。それそのものになりきっており、しかも名称が無くなっている。カテゴリーが消滅し、存在そのものが立ち現れる。①②の段階での瞑想の対象は、対象が粗大なもの(目で見て捉えることができるもの。犬、牛、人間、コップなど)となる。

3 瞑想の対象が微細なものになる。自分の内側の器官や、心(自我意識)を対象とする段階。『ヨーガ・スートラ』では上記①②③について「種子をもった三昧」と説く。ここではまだ対象の記憶が刷り込まれた状態で三昧に入っている段階で、最終段階の④における「完全に対象そのものが現われ」ている状態とは異なる。

4 明知が生じた状態。明知とは対象を正しく認識した結果、得られる智識。普段の生活では、あらゆる煩悩、あらゆる記憶が付着して対象を見ているが、瞑想を行う時は心の働きを止めて対象そのものになろうとする。そして段階を経て、完全に対象そのものが現われた時が「明知」の生じた状態である。それが生じた時には自己に対する静けさの中に入る。そのものを見ている=そのものになっている、という領域に入る。対象そのものの真実とは、自分の記憶や偏見を通さないことである。このような知覚は「正知」と呼ばれ「伝承知」(言葉や他者の経験に基づく)「推量知」(複数の事柄から推量)とは区別される。つまり正知とは真の直接知覚であり、普段の私たちの知覚とは異なる。ヨーガ行者のみが経験し得る直接知覚があると考えられるのである。

この時に、潜在印象(サンスカーラ)はどうなっているかというと「三昧から生じた潜在印象は他の潜在印象を抑止する」と考えられている。つまり三昧からも潜在印象が生じるが、それをも抑止してしまうと、すべてを抑止することになる。そして無種子三昧が生じる。このように考えられている。

どうやって、最後のサンスカーラを止滅させるのか?おそらく深い瞑想下においては勝手に止まるのだろう。自動的に停止するのではないかと思われる。これは「止めようとする意欲」には依らない。理論では解らず、実践においてしか理解し得ないことであろう。体験の中で起こすことが大切である。そのために大切なことはヨーガを行ずることである。

まず、姿勢・身体の力の入れ具合が大切である。姿勢が心を鎮めてくれる。姿勢が整えば、呼吸が整う。呼吸は想念と連動する。まずは、安定して座れる(瞑想できる)身体づくりから行うことになる。

最後に、一般レベルでの三昧に触れるが、前述のように○○三昧=何かに集中、ということになる。何かに集中することは自分が消えることである。通常は、人は何かをしていながらでも自分の行動をジャッジしてしまう。しかし集中によってそうした習慣を無くせるはずである。心が心を見るという「心の働き」が入って来ない状態があるはずである。やっていて心が無になるようなことを行うのは、ヨーガに通じることで善いことである。

(聴き書き、編集:仏教サロン京都主宰 加藤悦子)

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