唯識って何だ!(2025年4月29日/5月6日)講座案内文

第1回:言葉は嘘をつく。 言葉の呪縛はどうやったら離れられる!(2025年4月29日)
私たちホモサピエンスは複雑な音声を発することができる。それによって「ことば」を使って仲間たちとコミュニケーションをとるために、目に見え、耳で聞こえるものなどを言語表現することを覚えた。さらに「もの」を離れても、その「もの」を想い描くことができるようになった。つまり「もの」の言語概念を獲得した。「ことば」があまりにも便利であったために、同じ音声を持った「ことば」であれば、私の言語概念と他の人の言語概念とが同一だと信じて疑わなくなった。
その結果「もの」そのものを「ことば」が表しているわけではないということに気づかなくなってしまっている。同じ言語表現から生まれる言語概念がすべての人で共通ではないことに気づかないのである。言語表現と言語概念とを「言葉」と記載すれば、「言葉は嘘をつく」のである。
私たちは「もの」そのものを認知認識しているのではなく、「言葉」によって「想い描きだしているに過ぎない(唯識)」ものを認知認識しているのである。だから、私と他の人との間に誤解が生まれたり、自分の信じていたものが瓦解したりし、それによって悩み苦しんだりしているのである。
この言葉による誤解、そして呪縛を取りさる方法論を「唯識観法」というのであり、修行者達が修行を通じて体得したものである。
そのメカニズムを読み解いてみようというのが、今回のお話である。

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第2回:五姓各別は誤解を生み、やっかいなことに!(2025年5月6日)
私が「唯識思想を研究している」と言うと、「ああ、唯識思想ね。五姓各別を説いて、万民が救われるとは限らず、救われない人もいるっていう思想でしょ」と言う方が結構いる。その方々はある程度中国唯識教学および日本法相教学(以下:唯識法相教学)の教義をご存じの方々のはずである。これはインドには由来するが、中国で誕生した思想である。
中国仏教はいわゆる如来蔵思想をベースにし、すべての人は救われるという大前提として仏教思想を育んできた。ところが玄奘三蔵法師は修行を重ね、仏教の内容を精査する中で、「これはおかしいぞ」とどこかで察知してインドに行った。そこには修行者達の体験に基づいて説かれた瑜伽行唯識思想の典籍があり、それを継承している修行者達がいた。
玄奘三蔵法師は修行者達の体験に基づいた唯識思想が中国で誤解されていることを嘆き、つい、うっかりと『仏地経論』を翻訳する際に「無種姓のものは救われない」と言ってしまった。「つい、うっかりと」というのは、玄奘三蔵法師は『仏地経論』以降、そのことは言わないのである。
ところが如来蔵思想を基調とする中国仏教をベースとする中国で猛反発を受け、攻撃されたこともあったことに反発して、玄奘三蔵法師の愛弟子である慈恩大師基は「無種姓のものは救われない」を前面に出した五姓各別思想を唯識法相教学の旗印にしてしまった。その結果、中国天台教学や華厳教学から攻撃され、それは日本でも天台宗との大論争に引き継がれてきたのである。
その誤解を解くために、インドにおいて五姓各別思想がどのように生まれ、展開したのかを、今回はお話ししていこうと思う。

(講師 佐久間秀範)

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